河井継之助氏(ラストサムライ)を訪ねて
2024年8月2日長岡の花火大会を見るために長岡を訪れていたので、かねてから来たかった小千谷の慈眼寺を訪ねて来ました。司馬遼太郎の「峠」を読んだ時に河井継之助氏を知り、河井氏に関する書物や番組を見てとても惹かれるものがありました。河井氏は長岡藩の中級武士階級に生まれ、幼少の頃から秀才で最終的には長岡藩の家老にまでのぼりつめ日本の将来を見据えて戊辰戦争の回避を唱えて小千谷の慈眼寺にて新政府軍と交渉を行いましたが願い叶わず北越戊辰戦争が勃発しました
今回はこの交渉場所の慈眼寺(小千谷)を訪れてきました。慈眼寺には会見の間(交渉場所)が残されていて(実際には平成16年の新潟県中越地震により、会見の間を含む本堂が全壊しましたが、多くの寄付により平成18年に復旧)そこの交渉場所を訪問しました。こちらは予約制で当日も団体さんの予約が入っていたそうなので、その時間を少しずらして見学させて戴きました(花火の日は同じように訪問される方が多いようです)。河井継之助や岩村精一郎の肖像画が掛かっており部屋には説明の放送が流れていました。河井氏が書いた手紙や交渉風景や砲弾の弾、などが色々展示されていました。どれも興味深々で興奮して説明をあまり聞いていなかったですが河井氏が戦争をしたかったという説もあると言うのが聞こえてきて、それならこの慈眼寺で岩村との交渉後も何度も面会を願ったというのは作り話なのでしょうか
【会見の間】
本堂向かって右側にある会見が行われた間。岩村精一郎は土佐藩士で北越追討山道軍軍監で当時23才、河井継之助は長岡藩家老上席軍務総督で当時42才でした。長岡藩は新政府軍と会津藩との板ばさみで苦慮し、河井継之助は「中立」という立場をとり長岡藩を救おうとし岩村に嘆願書を出すが岩村は認めず交渉が決裂し、河井は越後諸藩と共に奥羽越列藩同盟に加入し新政府軍に烈しく抵抗しました
北越戊辰戦争は新政府にとって苦しい戦いで長岡藩の抵抗がここまで熾烈を極めると思ってなかったようで、戦争に負けた場合新政府が崩壊しかねない事態になるため木戸孝允が援軍を送ってようやく勝利を治めましたが、新政府でも苦い経験なのでこれまでもあまり語られてこなかった出来事のようです
【岩村軍監河井総督会見記念之碑】
本堂前の「岩村軍監河井総督会見記念の碑」長岡藩の中立と会津藩の降伏斡旋を河井継之助、岩村精一郎とが会談した事を記念して昭和14年、慈眼寺住職船岡芳快の発願によって建立されたものです
【時山直八君之碑(写し)】
展示物の中に時山直八君之碑の写しがありました。実際は官軍墓地の中に山県有朋の撰文による「時山直八君之碑」が建立されています。慈眼寺での交渉決裂の後、岩村に代わって指揮を仮参謀の時山直八がとるが、朝日山の戦いで戦死。時山と山県は共に下級武士の出身で共に吉田松陰門下生で奇兵隊の盟友であった
今回長岡に来ることが出来、慈眼寺以外にも河井継之助記念館(ガトリング砲見たかったです)、継之助のお墓、榎峠、朝日山等沢山訪れたかったですが長岡花火の日に来るのは少し無理がありました。長岡市役所にある長岡城跡も訪れましたが花火待ちの方々で賑わっておられたので写真撮影も諦めました。ここで150年程前に新政府軍と長岡藩の激戦があったと思うと不思議な感覚でした。現在は平和な世の中で本当に良かったです
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