幕末関連幕末,高杉晋作

幕末ヒーローの中で一番大好きな人物の高杉晋作氏所縁の地を訪ねてきました
高杉晋作氏のことは歴史好きでであれば誰でも知ってる超有名人なのでここでは触れませんが、日本の初代総理大臣伊藤博文からも、高杉晋作氏のことを『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し』という有名な言葉で表現されているほどの天才革命児でした

天才革命児の高杉晋作氏

東行庵

最初に訪れたのは、高杉晋作氏のお墓がある有名な山口県吉田清水山を訪れました。ここには晋作氏のお墓や、記念館が存在します
以前より此処を訪れたかったがやっと念願が叶いました。お墓はとても立派でおうのさんのお墓や、伊藤博文らが贈ったとされる石碑があり、その石碑にはとても興味深い内容が刻まれていましたのでまた別の機会に紹介させて下さい

東行庵
以前から訪れたかった場所です

この吉田は晋作氏が創設した奇兵隊の本部があったところで、晋作氏の思いが一杯詰まった場所であると思います。記念館には、実際に使用されていた甲冑や旗、晋作氏の身に着けてられたものが並んでおり、本当に興奮しました

晋作氏愛用の具足
道中三味線
高杉晋作氏のお墓
顕彰碑(かなり大きいものです)
顕彰碑には晋作氏の事が記されています

またこの吉田には、奇兵隊第三代総督の赤禰武人氏のお墓があり、赤禰武人氏が裏切者と言われ処刑されたことが後年になって誤解であったのではないかと言われており事実は判りませんがとっても悲しい出来事だったと思います

晋作氏は、病床にて赤根武人についてこう語ったと言われています「(幕府との全面戦争回避を画策した)武人の心中を洞察することができず、生命を全うさせることができなかったのは、残念であった。」

赤禰武人氏のお墓

共に奇兵隊総督を務めた親友であったそうですが今はこの地に二人のお墓があります

晋作氏が亡くなった時にこの吉田清水山へ続く道には人力車や籠がびっしり並んでいたと聞いて晋作氏の死を悼む人の多さに驚かされます

功山寺

この地は晋作氏ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のためにクーデターを起こした地

挙兵の舞台となった功山寺

晋作氏は三條氏へ挙兵を告げ出陣の盃を欲し、三條実美は冷酒を注いでこれを与えた。 高杉は注がれた盃を飲み干し、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をして立ち上がったと言われる有名なお寺

躍動感あふれる・高杉晋作挙兵像

晋作氏が馬に跨った銅像があり、これから出陣といった躍動感あふれる銅像です。とても有名なお寺で、訪れた時が夕方近くの時間でもあり、お寺の門に夕日が差し込んで来て幻想的な感じでした

功山寺・趣きのあるお寺です

また、ここは坂本竜馬が京都伏見の寺田屋で幕府方に襲われた時に身体を張って身辺警護していた坂本竜馬の親友である、長州藩の三吉慎蔵氏のお墓もあるところです

三吉慎蔵氏のお墓(お花が一杯でした)

下関市立長府博物館

下関市立長府博物館

ここは高杉晋作氏や坂本龍馬氏のほか、久坂玄瑞、山県有朋ら幕末の志士の書状や愛用品などが沢山展示してあり、幕末から明治維新の下関についての展示物が充実しています

館内には書状などが沢山あり時間があればもう少しゆっくり見たかったのですが、下関に来ているだけで興奮していて晋作氏以外のものが全く目に入らない状態だったのですみませんあまり覚えていませんので、次回はまたゆっくり訪れたいです

厳島神社

ここには四境戦争で高杉晋作氏が指揮する小倉口の戦闘で、敵方の幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走した戦いで攻め入った長州軍は余燼の中から戦利品としてこの太鼓を持ち帰り、戦勝祈願を行った厳島神社に奉納したとされる太鼓が置いてあります

小倉戦争戦利品の太鼓

現在、維新顕彰並びに小倉戦争の記念行事として、ここ厳島神社では毎年八月の第一日曜日に「太鼓祭」を催しているそうです

          説明書き                  高杉晋作氏の記録       

この神社から少し出たところに居酒屋さんで晋作というお店がありました。時間が無かったので覗けませんでしたが、凄く気になるお店でした。きっと地元の英雄高杉晋作さんを偲んで付けられた屋号なんでしょうね

高杉晋作終焉の地

厳島神社から直ぐ近くに晋作氏が亡くなられた地が柵で覆われて残されています。私が訪れた時は終焉の地という目印が立ててあり、少し暗い感じの小さいスペースでした。後日テレビで紹介されたときに見ていたら綺麗に整備され当時より明るい雰囲気でに変わっていて石碑があるようでした

晋作氏終焉の地

櫻山神社

厳島神社より少し車を走らせると桜山神社があります。趣きのある階段を上ると広い境内があります。ここには
“高杉氏の発議により殉国の志士の霊を祀る招魂場があります(櫻山神社が日本で初めて設立された招魂場だそうです)"

櫻山神社・良い雰囲気の階段です

さらに吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋など明治維新の功労者である長州の指導者の霊も合祀され、今日では396柱の神霊が祀られているそうです

日本初の招魂場
桜山神社招魂場

本殿の左側にある看板には竜馬の妻である“お龍”が坂本龍馬の死後に下関を訪れ、この招魂社の運営に関わっていたと記されていました
“またお龍が詠んだと言われる句『武士のかばねはここに櫻山花は散れども名こそ止むれ』も刻まれていました"

お龍さん

他にも訪れた所、写真が沢山ありますので時間があれば追加する予定です。

幕末関連大村益次郎,幕末

司馬遼太郎氏の『花神』を読んで大好きになった大村益次郎氏の故郷を訪ねてきました。また後半は地元大阪や京都での記録も記載しています。(Wikipediaより 大村益次郎氏 )幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人で戊辰戦争では東征大総督府補佐となり勝利の立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官)を務め日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる

大村益次郎氏

大村益次郎氏は幕末には欠かせない人物で色んな書物に登場するので名前は知ってはいたのですが『花神』を読んで凄く興味が湧いてきてどうしても大村氏が育った山口県山口市鋳銭司村を見たくなり訪問致しました。始めて訪れましたが自然豊かで空気が澄んでいて何故か懐かしい雰囲気のある本当に魅力的なところでした。駅近くの歩道橋には大村益次郎氏のふるさとと書かれた横断幕が掛けてありました

益次郎氏のふるさと鋳銭司

山口市歴史民俗資料館別館鋳銭司郷土館

ここは大村氏が生まれ育ったということで鋳銭司郷土館に大村益次郎氏の遺品等が展示してあります。また館内には鋳銭司の語源となったお金を作っていた資料も併設されていました。大村益次郎記念館には貴重な書物、記録、遺品が展示してあり人物像が書物でしか感じれなっかったのが実際に生活していたのだなあって実感が持てて興奮致しました

鋳銭司郷土館 正面に大村氏のパネル
大村益次郎氏の像
大村氏に関わった人達のパネルです
靖国神社の大村益次郎像の絵です
明治2年 太政官制主要官職補任一覧
下参謀 西郷吉之助(隆盛)と大村益次郎
幕末維新防長異才番付

大村神社

鋳銭司郷土館の隣に大村神社があり、大村益次郎氏が祀られています。中には大村益次郎氏の自画像や、大村氏が使用した四境戦争の作戦図、外国語の資料、また大河ドラマ「花神」の撮影風景等が展示されておりとても興味深い内容のものが展示されていました。静かな本当に良い神社でした

大村神社 落ち着いたとても感じの良いところでした
大村神社の説明書き
大村氏の肖像画
大河ドラマ「花神」の鋳銭司での撮影風景
代数ノート
(代数は日本では新しい学問であるが大村は原書を訳して
よくこれを学びさらに幾何、微分、積分等にも精通していました)
芸州口の戦略図
(長州は幕府と対立し幕府は長州征伐の兵を発した。大村は参謀として
防長の四境にせまる敵に対して新しい様式兵法で迎え撃った)
石州口の作戦図
(防長の四境にせまる幕府軍のに対して、大村は新式兵備をもってこれを討ち払った。
石州口では大村みずから兵を指揮して幕府軍を遠くへ追撃した)

大村益次郎ご夫婦のお墓

大村神社より少し山の方へ行くと大村ご夫婦の立派なお墓があります。少し入り込んだ静かなところですがとても大きいな敷地の立派なお墓があり、近くに大きな神道碑もありました。(神道碑とは、明治10年に大村氏の弟子であった山田顕義が功労を称えて碑を贈呈したものです)

大村氏ご夫婦のお墓の入り口
大村益次郎氏お墓前の看板
故兵部大輔 贈従三位 大村永敏墓
大村益次郎ご夫婦の墓(とても静かなところにある立派なお墓です)
大村益次郎氏のお墓(何故かペットボトルが置いてました)
大村琴子さんのお墓
大村公神道之碑
寄付人名(有栖川熾仁親王 東伏見嘉彰親王 三条實美 毛利元徳 伊達宗城 伊藤博文 井上馨 山田顕義 山尾庸三 品川彌次郎など)

大村益次郎誕生の地

大村益次郎は鋳銭司村にある医者の長男としてこの地で生まれ医者として育ちました。特に何もない所ですがこの辺り一帯は本当に長閑な良い感じの場所ばかりでした。また機会があれば是非行ってみたいな~

大村益次郎氏誕生の地

京都木屋町にある遭難の地

明治元年3月20日、京都の木屋町で大村益次郎氏が暴漢に襲われ重傷を負った現場です。その傷が元で亡くなってしまうのですが、非常に残念な気分になってしまいます。この石標は大村氏が襲撃された宿の跡を示すものだそうです

大村益次郎氏が襲われた場所です
大村益次郎卿遭難碑
大村益次郎卿遭難碑の看板

大阪病院、大村益次郎殉難報国之碑

大阪市中央区法円坂二丁目、国立大阪病院南東角の交差点に存在する大村益次郎殉難報国之碑、明治2年9月4日京都において反対派のために襲撃を受け、11月5日大阪で没しました。昭和15年に建立された当時の日本にとって大村益次郎は神的存在だったと思われます。周囲にはこの碑の建立に協賛した人々の名が刻まれていました。その名前が錚々たる面々でした鳥井信次郎(サントリー創業者)、東條英機(陸軍大将・総理大臣)、松下幸之助、鴻池善右衛門、小林一三(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者、江崎利一(グリコの創業者)など。とても立派な碑で何度も車で前を通ったことはあったのですが、今回初めて近くで見て大村氏の偉大さを感じました

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
碑の横に大村氏のパネル(鋳銭司郷土館のパネルとよく似ていました)

大阪市中央区、緒方洪庵邸

幼い頃から頭が良く、医師になるため23歳で大坂へ。緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で学び、医学や蘭学、兵学に通じる。全国から秀才が集まる中、大村益次郎(村田蔵六)は1年で塾頭になる。適塾の歴代塾頭には、久坂玄機(玄蕃の兄)、福澤諭吉等の名があり、他にも大鳥圭介、橋本左内らといった門下生を輩出した所です。ここはオフィスビル街の中にポツンとある所でこの建物だけが時代に取り残されたような感じですがとても立派な建物です

幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉や大村益次郎など、
多くの志士を育てた蘭学塾。現在の建物は国の重要文化財

大村益次郎氏は興味がどんどん湧いてきますのでこれからも関連する本を読んだり、足跡を追いかけて探索を続けたいと思いますので、随時更新する予定です