備忘録,色々小千谷(慈眼寺),金沢観光,長岡花火大会

日本三大花火大会の長岡の花火大会 一度観てみたかった花火です

念願の長岡花火大会に行ってきました。先ず有料観覧席を手に入れるために一般販売の抽選に応募しましたが見事に外れ、次は残席の先着順販売で販売開始時間に秒単位で参戦し何とかチケットを入手出来ましたが既に良い席は無く、購入出来たのは三尺玉ブロック指定席でした。長生橋越しに花火を観戦する感じです。次はホテルの予約ですが長岡近辺は皆無で少し離れたところも全滅で新幹線で一駅以上離れれば大体一泊5万円以上で購入可能でしたので越後湯沢で結局高額なホテルを予約しました。高~い長岡花火価格です。最後は新幹線の予約ですがこれもこの時点で夕方付近の東京~長岡の指定席は満席でした。自由席しかありませんでした(花火の抽選や移動に関しては番外編に纏めたいと思います)長岡まで車での移動は恐ろしい渋滞らしいので新幹線移動にしました

8月2日(花火当日)は金沢に前泊して金沢から越後湯沢を目指しました。越後湯沢へ行く前に小千谷に寄ってここも念願が叶って慈眼寺の会見の間(長岡藩・河井継之助と新政府軍・岩村精一郎との交渉の場)を拝見させて戴き感動を噛みしめながら越後湯沢に到着しました。夕方越後湯沢駅から新幹線で長岡駅に向かいますが既に満席で指定席側も使って乗車して良かったのですが、到着時は通勤ラッシュ状態でした。混雑で電車が数分遅れましたが20分程で長岡駅着きました。長岡駅構内は大混乱で殆ど動けませんでしたが何とか抜けて花火会場を目指しますが、皆さん会場を目指しておられるので付いて行けば会場までは問題なく行けそうでした

     前泊の金沢にて  河原               ひがし茶屋街            21世紀美術館(スイミングプール)              
    念願の慈眼寺(会見の間)     

会場に着いたのが夕暮れでしたが信濃川の河川敷でしたので涼しかったです。19時20分からの白菊という花火から開始です。「打ち上げ、開始でございまーす!」と独特のアナウンスが流れていよいよ長岡大花火が始まります。長岡の花火は有料席が34万席、約2キロに渡って1万発が打ち上げられるので開始早々感動の嵐で天神祭りの花火や伊勢の花火等は見たことがありましたがスケールが全然違いました。日本三大花火大会と言われるだけあって打ち上げが始まって数分で来て良かったと思いました。フェニックスと言われる中越地震からの復興を願っての花火はこれだけ長い間花火を連発で上げるのかと思う規模で鳥肌ものでした。また正三尺玉と言われる650mに広がる大花火が打ち上げられる時は打ち上げ前にサイレンが鳴り響き打ち上げられます。この花火の大きさも圧巻で包み込まれるような感じで破裂音が胸に響きます。感動と鳥肌、また歓声や拍手が延々と続きあっという間の2時間が終わりました。ただあまりゆっくりしていると最終の新幹線に間に合わないので(時間的には余裕なのですが、人が多いので入場規制があります)そこで早足で長岡駅に向かいますが新幹線、在来線、東京方面、新潟方面、指定席、自由席で駅前の歩くルートが決められていて、意外とスムースに改札を通ってホームに入れました。しかし新幹線の東京行きホームは超満員でした。長岡始発の新幹線が入って来るのですが直ぐに満員になって通勤ラッシュ状態で乗るのを諦めていたら東京へ向かう人たちが座りたいのでその電車を見送っていたので何とか滑り込みで乗れました。ただ車内はすし詰め状態で20分ほど耐えました。長岡の花火大会はまた機会があれば是非来たいですがあの新幹線は二度と乗りたくないです(笑)

越後湯沢ホーム      長岡駅改札 大盛況です       三尺玉ブロック観覧席         いよいよ花火開始です    
花火の動画(容量の加減で一部です)

今回の旅は幕末編や長岡花火番外編でもう少し詳細にご紹介させて下さい。

幕末関連幕末

河井継之助肖像画(慈眼寺にて)

2024年8月2日長岡の花火大会を見るために長岡を訪れていたので、かねてから来たかった小千谷の慈眼寺を訪ねて来ました。司馬遼太郎の「峠」を読んだ時に河井継之助氏を知り、河井氏に関する書物や番組を見てとても惹かれるものがありました。河井氏は長岡藩の中級武士階級に生まれ、幼少の頃から秀才で最終的には長岡藩の家老にまでのぼりつめ日本の将来を見据えて戊辰戦争の回避を唱えて小千谷の慈眼寺にて新政府軍と交渉を行いましたが願い叶わず北越戊辰戦争が勃発しました

今回はこの交渉場所の慈眼寺(小千谷)を訪れてきました。慈眼寺には会見の間(交渉場所)が残されていて(実際には平成16年の新潟県中越地震により、会見の間を含む本堂が全壊しましたが、多くの寄付により平成18年に復旧)そこの交渉場所を訪問しました。こちらは予約制で当日も団体さんの予約が入っていたそうなので、その時間を少しずらして見学させて戴きました(花火の日は同じように訪問される方が多いようです)。河井継之助や岩村精一郎の肖像画が掛かっており部屋には説明の放送が流れていました。河井氏が書いた手紙や交渉風景や砲弾の弾、などが色々展示されていました。どれも興味深々で興奮して説明をあまり聞いていなかったですが河井氏が戦争をしたかったという説もあると言うのが聞こえてきて、それならこの慈眼寺で岩村との交渉後も何度も面会を願ったというのは作り話なのでしょうか

慈眼寺 山門(登録有形文化財)
会見の間がある本堂

【会見の間】
本堂向かって右側にある会見が行われた間。岩村精一郎は土佐藩士で北越追討山道軍軍監で当時23才、河井継之助は長岡藩家老上席軍務総督で当時42才でした。長岡藩は新政府軍と会津藩との板ばさみで苦慮し、河井継之助は「中立」という立場をとり長岡藩を救おうとし岩村に嘆願書を出すが岩村は認めず交渉が決裂し、河井は越後諸藩と共に奥羽越列藩同盟に加入し新政府軍に烈しく抵抗しました

会見の間(訪れたかった場所です)
砲弾などの展示t物がありました
手紙などもありました

北越戊辰戦争は新政府にとって苦しい戦いで長岡藩の抵抗がここまで熾烈を極めると思ってなかったようで、戦争に負けた場合新政府が崩壊しかねない事態になるため木戸孝允が援軍を送ってようやく勝利を治めましたが、新政府でも苦い経験なのでこれまでもあまり語られてこなかった出来事のようです

【岩村軍監河井総督会見記念之碑】
本堂前の「岩村軍監河井総督会見記念の碑」長岡藩の中立と会津藩の降伏斡旋を河井継之助、岩村精一郎とが会談した事を記念して昭和14年、慈眼寺住職船岡芳快の発願によって建立されたものです

岩村軍監河井総督会見記念之碑
岩村軍監河井総督会見記念之碑の解説

【時山直八君之碑(写し)】
展示物の中に時山直八君之碑の写しがありました。実際は官軍墓地の中に山県有朋の撰文による「時山直八君之碑」が建立されています。慈眼寺での交渉決裂の後、岩村に代わって指揮を仮参謀の時山直八がとるが、朝日山の戦いで戦死。時山と山県は共に下級武士の出身で共に吉田松陰門下生で奇兵隊の盟友であった

時山直八君之碑(写し) 慈眼寺内にて

今回長岡に来ることが出来、慈眼寺以外にも河井継之助記念館(ガトリング砲見たかったです)、継之助のお墓、榎峠、朝日山等沢山訪れたかったですが長岡花火の日に来るのは少し無理がありました。長岡市役所にある長岡城跡も訪れましたが花火待ちの方々で賑わっておられたので写真撮影も諦めました。ここで150年程前に新政府軍と長岡藩の激戦があったと思うと不思議な感覚でした。現在は平和な世の中で本当に良かったです