幕末関連大村益次郎,幕末

司馬遼太郎氏の『花神』を読んで大好きになった大村益次郎氏の故郷を訪ねてきました。また後半は地元大阪や京都での記録も記載しています。(Wikipediaより 大村益次郎氏 )幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人で戊辰戦争では東征大総督府補佐となり勝利の立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官)を務め日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる

大村益次郎氏

大村益次郎氏は幕末には欠かせない人物で色んな書物に登場するので名前は知ってはいたのですが『花神』を読んで凄く興味が湧いてきてどうしても大村氏が育った山口県山口市鋳銭司村を見たくなり訪問致しました。始めて訪れましたが自然豊かで空気が澄んでいて何故か懐かしい雰囲気のある本当に魅力的なところでした。駅近くの歩道橋には大村益次郎氏のふるさとと書かれた横断幕が掛けてありました

益次郎氏のふるさと鋳銭司

山口市歴史民俗資料館別館鋳銭司郷土館

ここは大村氏が生まれ育ったということで鋳銭司郷土館に大村益次郎氏の遺品等が展示してあります。また館内には鋳銭司の語源となったお金を作っていた資料も併設されていました。大村益次郎記念館には貴重な書物、記録、遺品が展示してあり人物像が書物でしか感じれなっかったのが実際に生活していたのだなあって実感が持てて興奮致しました

鋳銭司郷土館 正面に大村氏のパネル
大村益次郎氏の像
大村氏に関わった人達のパネルです
靖国神社の大村益次郎像の絵です
明治2年 太政官制主要官職補任一覧
下参謀 西郷吉之助(隆盛)と大村益次郎
幕末維新防長異才番付

大村神社

鋳銭司郷土館の隣に大村神社があり、大村益次郎氏が祀られています。中には大村益次郎氏の自画像や、大村氏が使用した四境戦争の作戦図、外国語の資料、また大河ドラマ「花神」の撮影風景等が展示されておりとても興味深い内容のものが展示されていました。静かな本当に良い神社でした

大村神社 落ち着いたとても感じの良いところでした
大村神社の説明書き
大村氏の肖像画
大河ドラマ「花神」の鋳銭司での撮影風景
代数ノート
(代数は日本では新しい学問であるが大村は原書を訳して
よくこれを学びさらに幾何、微分、積分等にも精通していました)
芸州口の戦略図
(長州は幕府と対立し幕府は長州征伐の兵を発した。大村は参謀として
防長の四境にせまる敵に対して新しい様式兵法で迎え撃った)
石州口の作戦図
(防長の四境にせまる幕府軍のに対して、大村は新式兵備をもってこれを討ち払った。
石州口では大村みずから兵を指揮して幕府軍を遠くへ追撃した)

大村益次郎ご夫婦のお墓

大村神社より少し山の方へ行くと大村ご夫婦の立派なお墓があります。少し入り込んだ静かなところですがとても大きいな敷地の立派なお墓があり、近くに大きな神道碑もありました。(神道碑とは、明治10年に大村氏の弟子であった山田顕義が功労を称えて碑を贈呈したものです)

大村氏ご夫婦のお墓の入り口
大村益次郎氏お墓前の看板
故兵部大輔 贈従三位 大村永敏墓
大村益次郎ご夫婦の墓(とても静かなところにある立派なお墓です)
大村益次郎氏のお墓(何故かペットボトルが置いてました)
大村琴子さんのお墓
大村公神道之碑
寄付人名(有栖川熾仁親王 東伏見嘉彰親王 三条實美 毛利元徳 伊達宗城 伊藤博文 井上馨 山田顕義 山尾庸三 品川彌次郎など)

大村益次郎誕生の地

大村益次郎は鋳銭司村にある医者の長男としてこの地で生まれ医者として育ちました。特に何もない所ですがこの辺り一帯は本当に長閑な良い感じの場所ばかりでした。また機会があれば是非行ってみたいな~

大村益次郎氏誕生の地

京都木屋町にある遭難の地

明治元年3月20日、京都の木屋町で大村益次郎氏が暴漢に襲われ重傷を負った現場です。その傷が元で亡くなってしまうのですが、非常に残念な気分になってしまいます。この石標は大村氏が襲撃された宿の跡を示すものだそうです

大村益次郎氏が襲われた場所です
大村益次郎卿遭難碑
大村益次郎卿遭難碑の看板

大阪病院、大村益次郎殉難報国之碑

大阪市中央区法円坂二丁目、国立大阪病院南東角の交差点に存在する大村益次郎殉難報国之碑、明治2年9月4日京都において反対派のために襲撃を受け、11月5日大阪で没しました。昭和15年に建立された当時の日本にとって大村益次郎は神的存在だったと思われます。周囲にはこの碑の建立に協賛した人々の名が刻まれていました。その名前が錚々たる面々でした鳥井信次郎(サントリー創業者)、東條英機(陸軍大将・総理大臣)、松下幸之助、鴻池善右衛門、小林一三(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者、江崎利一(グリコの創業者)など。とても立派な碑で何度も車で前を通ったことはあったのですが、今回初めて近くで見て大村氏の偉大さを感じました

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
碑の横に大村氏のパネル(鋳銭司郷土館のパネルとよく似ていました)

大阪市中央区、緒方洪庵邸

幼い頃から頭が良く、医師になるため23歳で大坂へ。緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾で学び、医学や蘭学、兵学に通じる。全国から秀才が集まる中、大村益次郎(村田蔵六)は1年で塾頭になる。適塾の歴代塾頭には、久坂玄機(玄蕃の兄)、福澤諭吉等の名があり、他にも大鳥圭介、橋本左内らといった門下生を輩出した所です。ここはオフィスビル街の中にポツンとある所でこの建物だけが時代に取り残されたような感じですがとても立派な建物です

幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉や大村益次郎など、
多くの志士を育てた蘭学塾。現在の建物は国の重要文化財

大村益次郎氏は興味がどんどん湧いてきますのでこれからも関連する本を読んだり、足跡を追いかけて探索を続けたいと思いますので、随時更新する予定です

幕末関連幕末

河井継之助肖像画(慈眼寺にて)

2024年8月2日長岡の花火大会を見るために長岡を訪れていたので、かねてから来たかった小千谷の慈眼寺を訪ねて来ました。司馬遼太郎の「峠」を読んだ時に河井継之助氏を知り、河井氏に関する書物や番組を見てとても惹かれるものがありました。河井氏は長岡藩の中級武士階級に生まれ、幼少の頃から秀才で最終的には長岡藩の家老にまでのぼりつめ日本の将来を見据えて戊辰戦争の回避を唱えて小千谷の慈眼寺にて新政府軍と交渉を行いましたが願い叶わず北越戊辰戦争が勃発しました

今回はこの交渉場所の慈眼寺(小千谷)を訪れてきました。慈眼寺には会見の間(交渉場所)が残されていて(実際には平成16年の新潟県中越地震により、会見の間を含む本堂が全壊しましたが、多くの寄付により平成18年に復旧)そこの交渉場所を訪問しました。こちらは予約制で当日も団体さんの予約が入っていたそうなので、その時間を少しずらして見学させて戴きました(花火の日は同じように訪問される方が多いようです)。河井継之助や岩村精一郎の肖像画が掛かっており部屋には説明の放送が流れていました。河井氏が書いた手紙や交渉風景や砲弾の弾、などが色々展示されていました。どれも興味深々で興奮して説明をあまり聞いていなかったですが河井氏が戦争をしたかったという説もあると言うのが聞こえてきて、それならこの慈眼寺で岩村との交渉後も何度も面会を願ったというのは作り話なのでしょうか

慈眼寺 山門(登録有形文化財)
会見の間がある本堂

【会見の間】
本堂向かって右側にある会見が行われた間。岩村精一郎は土佐藩士で北越追討山道軍軍監で当時23才、河井継之助は長岡藩家老上席軍務総督で当時42才でした。長岡藩は新政府軍と会津藩との板ばさみで苦慮し、河井継之助は「中立」という立場をとり長岡藩を救おうとし岩村に嘆願書を出すが岩村は認めず交渉が決裂し、河井は越後諸藩と共に奥羽越列藩同盟に加入し新政府軍に烈しく抵抗しました

会見の間(訪れたかった場所です)
砲弾などの展示t物がありました
手紙などもありました

北越戊辰戦争は新政府にとって苦しい戦いで長岡藩の抵抗がここまで熾烈を極めると思ってなかったようで、戦争に負けた場合新政府が崩壊しかねない事態になるため木戸孝允が援軍を送ってようやく勝利を治めましたが、新政府でも苦い経験なのでこれまでもあまり語られてこなかった出来事のようです

【岩村軍監河井総督会見記念之碑】
本堂前の「岩村軍監河井総督会見記念の碑」長岡藩の中立と会津藩の降伏斡旋を河井継之助、岩村精一郎とが会談した事を記念して昭和14年、慈眼寺住職船岡芳快の発願によって建立されたものです

岩村軍監河井総督会見記念之碑
岩村軍監河井総督会見記念之碑の解説

【時山直八君之碑(写し)】
展示物の中に時山直八君之碑の写しがありました。実際は官軍墓地の中に山県有朋の撰文による「時山直八君之碑」が建立されています。慈眼寺での交渉決裂の後、岩村に代わって指揮を仮参謀の時山直八がとるが、朝日山の戦いで戦死。時山と山県は共に下級武士の出身で共に吉田松陰門下生で奇兵隊の盟友であった

時山直八君之碑(写し) 慈眼寺内にて

今回長岡に来ることが出来、慈眼寺以外にも河井継之助記念館(ガトリング砲見たかったです)、継之助のお墓、榎峠、朝日山等沢山訪れたかったですが長岡花火の日に来るのは少し無理がありました。長岡市役所にある長岡城跡も訪れましたが花火待ちの方々で賑わっておられたので写真撮影も諦めました。ここで150年程前に新政府軍と長岡藩の激戦があったと思うと不思議な感覚でした。現在は平和な世の中で本当に良かったです